1965年の東京モーターショーで、1台のスポーツカーを発表します。直列6気筒DOHCエンジンを搭載したそのクルマは、「誰もが息をのんだ」と言われるほど美しいスタイリングと国産車としては突出したスペックを持ち、当時のクルマ好きの心を奪いました。“そのクルマ”とは、2017年に発売50周年を迎え、今も名車として語り継がれる「トヨタ2000GT」です。
世界に通用する第一級のスポーツカーを
2000GTは、1967年から1970年までのわずか3年間だけ作られた、日本のスポーツカー。発売当時の価格は238万円とクラウンが2台、カローラなら6台も買えてしまう高額なクルマでした。当時の大卒初任給が2万6000円ほどだったといいますから、現在の価値で考えると2000万円以上でしょう。では、なぜトヨタはこんなにも高価で高性能がクルマを作り出したのでしょうか?
1966年に登場した初代カローラの価格は40~50万円だった
その開発がスタートするのは1964年、「第2回日本グランプリ」のあとのこと。第2回日本グランプリといえば、プリンス・スカイラインGTのポルシェ904のデッドヒートがよく語られますが、その一方でトヨタ陣営は苦戦を強いられたレースでもありました。ここから「世界に通用する第一級のスポーツカー造り」が始まったといわれています。
そのとき目標とされたのは、レースに勝つためだけのスポーツカーではなく、ヨーロッパのGT(グランツーリスモ)的なクルマ。さらに、大量生産ではなく、少量でも質の高いクルマとするとされました。
ヤマハ発動機が開発のパートナーに
2000GTは、直列6気筒DOHCエンジンをフロントに搭載し、リヤタイヤを駆動するFR(後輪駆動)レイアウト。シャシーは、軽量・高剛性なバックボーンフレーム構造を採用しています。
注目すべきは、ヤマハ発動機が開発のパートナーに選ばれていること。トヨタの基本設計のものをもとに、ヤマハがエンジンの高性能化やシャシー細部の設計を担当。エンジンは、クラウンに搭載されていたSOHCをDOHC化するなど、大幅に強化されました。また、ボディの一部に用いられたFRP(繊維強化プラスチック)は、ヤマハのオートバイの技術が、内装のウッドパネルなどにはヤマハの母体である日本楽器の楽器製作技術が用いられています。市販車の生産もヤマハで行われました。
スピードトライアル車のレプリカ。実車の現存は確認されていない
1967年に市販型が発売になる前年の1966年には、「第3回日本グランプリ」に出場し3位入賞を果たした他、同年、FIA公認の「スピードトライアル」に挑戦し、3つの世界記録と13の国際記録を更新。この世界記録更新は、アメリカ車以外で初めての快挙であると同時に、日本初のFIA公認記録でもありました。
3年5カ月での生産台数、337台
2000GTの市販型が生産されたのは、1967年~1970年の3年5カ月のみ。1969年にはマイナーチェンジが行われ、クーラーやトヨグライド(オートマチック)が設定される後期へと進化しますが、3年5カ月を通じての生産台数は、海外向けもあわせて337台だったといわれています。市販車として考えると驚くほど少数ですが、少量生産の高額なGTカーとしては決して少なくない生産台数だったのではないでしょうか。
後期型はサイドマーカーやフォグランプ周辺の形状が異なる
冒頭で、236万円の価格はクラウン2台分であるとお伝えしましたが、それでもコスト的にはまったく見合っていなかったようで、1台あたりの原価は280万円だったとも500万円だったともいわれています。いかにトヨタが威信をかけて、「世界に通用する第一級のスポーツカー」を作ろうとしていたかがわかりますね。
text by 木谷宗義+Bucket
photo by トヨタ自動車、トヨタ博物館
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