MENU

ヒトラーが関係していた!?みんな知ってる“あのクルマ”のルーツ

20世紀は、それまで贅沢品だった自動車が大衆の乗り物となった時代でした。それを象徴しているともいえる車はいくつかありますが、今回は第二次世界大戦中にドイツの国民車構想によって誕生した車についての問題です。

2級 (第3回):1930年代にフェルディナント・ポルシェ博士が開発した「フォルクスワーゲン タイプ1」(通称ビートル)は、ドイツの国民車構想から生まれた車です。では、この車が登場した時の車名は何ですか。
  • ①DKW
  • ②Kdf
  • ③Kfz
  • ④T型

解答:②Kdf

ヒトラー政権によって生まれたクルマ

1930年代、ドイツを動かしていたのは、ヒトラー率いるナチス党でした。ナチス党政権下のドイツでは、国民に対して多様な娯楽が提供されていました。

その娯楽を提供していたのが「Kraft durch Freude」(「喜びを通じて力を」略称KdF)。日本語で「歓喜力行団」という組織でした。この組織の本当の目的は、娯楽を通して国民をまとめ、ナチス党への忠誠心を高めることでした。

後にヒトラーが発表する国民車構想に基づき「フォルクスワーゲン・タイプ1」(ビートル、カブトムシの愛称で知られる)が開発されるのですが、大衆による安価な自動車購入の補助を行なっていたのも、この歓喜力行団でした。車名はこの組織の名前をとり、1938年、正式に「歓喜力行団の車」と名付けられました。

ということで、正解は②KdFでした。それでは、他の選択肢についても解説をご覧ください。

①DKW

「DKW」(デーカーヴェー)は、かつてドイツにあった自動車とオートバイを製造していた企業の名前です。DKWは、もともとはドイツ語で蒸気自動車を表す「Dampf Kraft Wagen」の頭文字ですが、実際には蒸気自動車は製造していません。最初はオートバイの製造で成功し、その勢いに乗って4輪自動車の製造にも乗り出しました。

1932年にはアウディなどと合併して「アウトウニオン」となりましたが、第二次世界大戦後にダイムラーベンツの傘下に、その後はフォルクスワーゲングループの傘下に入りました。現在では、ドイツ車のアウディにその面影が残されています。

③Kfz

「Kfz」は「Sd.Kfz.-Nummer」の略称であり、日本語では「特殊車輌番号」と訳されています。第二次世界大戦終了までにドイツ陸軍兵器局が採用した、半装軌車や装軌車に対してつけられた番号のことです。

④T型

KdFよりも前に、自動車の大衆化に成功した車といえば、「T型」。アメリカのフォードモーターが1908年に販売を開始した自動車で、正式名称は「フォード・モデルT」ですが、日本では「T型フォード」の名で知られています。

自動車に2000ドル以上の値段がつけられるのが珍しくない時代に、T型は850ドルの価格で販売されました。当時の自動車づくりは熟練工が一人で仕上げるスタイルでしたが、これを分業制にしてベルトコンベアーによる流れ作業にすることで、効率的に生産して価格を抑えられたのです。

当時のアメリカ人の平均年収が600ドル程度であったため、T型フォードは庶民でもなんとか手が届く値段でした。この価格設定により、発売開始から1年間で1万台以上を売り上げ、大ベストセラーとなりました。

戦争から生まれた車が人々の生活を豊かに

自動車や旅客機は、戦争のための製造技術により大幅に性能が向上し、発展した側面もあります。人々を苦しめたものが、人々の生活を豊かにする自動車の技術を生み出したというのは意外な事実ですね。

text by オレイン