ホンダは現在、四輪、二輪問わず様々なモータースポーツ活動に積極的なメーカーです。その中でもっとも有名な活動がF1(フォーミュラワン)。1966年から参戦し、現在も日本の自動車メーカーとしては唯一参戦を続けています。
ホンダのF1参戦の歴史は、現在まで大きく4期に分けることができます。今回は、礎となった第1期を紹介します。
二輪の世界一から四輪の世界一に
ホンダはもともとバイクメーカーとして誕生しました。同社の黎明期から作り続けられているスーパーカブは世界に誇る名機。日本でも“働くバイク”としてすっかり定着していますね。そんなホンダは、1959年からマン島TTレースに参戦。1961年には125cc、250cc両クラスでタイトルを獲得し、ホンダブランドが世界に轟きます。
マン島TTレース(1959年)
“二輪を制した次は四輪”。名実ともに世界一のバイクメーカーにのし上がったホンダの次の野望は、四輪に進出し、この分野でも世界一をとること。それが創業者 故・本田宗一郎氏の夢でもありました。1963年にホンダ初のスポーツカー、S500を発表するやいなや、F1参戦を決定します。「やるなら世界一を!」のポリシーをもとに、ホンダの無謀とも言える挑戦が始まりました。
参戦2年目で優勝を獲得したエンジニアの魂
完成したホンダ初のF1マシン RA271は、二輪レーサーで培われた技術をつぎ込んで開発された1.5LのV型12気筒エンジンを横置きにレイアウトする(現在のF1マシンは縦置き)という斬新なものでした。
RA271(1964年)
レースデビューは1964年8月に行なわれた第6戦ドイツGP。マシンはクラッシュしてリタイアとなったものの、リザルト上は13位で完走扱いに。マシンは、オーバーヒートをはじめ数々の課題と残し、続くイタリアGP、アメリカGPは、どちらもリタイアという結果となりました。
1964年ドイツGP
しかしエンジニアは、オフシーズン中に課題の洗い直しや、研究・開発を続け、1965年参戦マシン、RA272を完成させます。初年度とは打って変わって、強豪マシンにも引けを取らない速さを獲得した同車は1965年の最終戦、メキシコGPで記念すべき初優勝をもたらします。参戦からわずか2年目。この成長ぶりに、本田宗一郎氏とエンジニアのたゆまぬ努力の成果が見て取れます。
通算2章で第1期を終える
念願の初優勝で有終の美を飾ったホンダF1ですが、1966年に大きな課題が突きつけられます。エンジン排気量の規定が、1.5Lから3Lに変更になり、新たにエンジンを開発しなくてはならなくなりました。
開発は遅れに遅れ、1966年シーズンが折り返しを過ぎた第7戦イタリアGPで、ようやくRA273がデビュー。エンジンこそ他チームを圧倒するパワーを発揮しましたが、シャシーの重量が最低規定重量を150kgも上回る650kgに達していたことが大きなハンデとなってしまい、同年は最高4位の結果に終わりました。
RA273(1966年)
翌年の1967年も中盤までは、このRA273で参戦。そして、第7戦イタリアGPで満を辞してニューマシン、RA300が登場します。それまでの伝統であった横置きエンジン式が縦置きになり、最高出力も420ps/11500rpmと大幅に向上しました。シャシーはローラ・カーズとの共同開発でアルミモノコック構造を採用。約6週間という短期間の開発にもかかわらずデビューウィンを飾りました。
RA300 (1967年イタリアGP)
1968年は、元日開催だった第1戦ブラジルGPこそRA300で走りますが、は第2戦のスペインGPから、新しいRA301を使用し2度の表彰台を獲得します。しかし、シーズン中盤からは1969年参戦用のマシン開発に主眼が置かれたため、1位を獲得することはできませんでした。さらにホンダは、1969年発売予定の小型車の開発に注力するため、F1の活動を1968年で取りやめることを決定します。こうしてホンダの第1期F1は終了。次にF1でホンダの冠を見るのは15年後の1984年でした。
現在、ホンダのF1活動は第4期目です。マシンの開発がうまくいかず、様々な問題がチームを襲っていますが、これまで幾度もタイトルを獲得してきた経験と、チームメンバーのスピリットは、1966年から変わっていません。今この瞬間もエンジニアは戦い続けています。来シーズンの活躍に注目ですね!
text by 阿部哲也+Bucket
画像提供:本田技研工業