【三菱自動車工業①】日産の資本が投入されどう変るか?
『ここをチェック』
★日本三大財閥の一つである三菱財閥の流れを汲むメーカー
★初めての自社開発乗用車の発売は1960年
★燃費不正問題から、筆頭株主が日産に
日産の資本が投入されどう変るか?
三菱自動車工業は、三菱グループに属する自動車メーカーで、日本三大財閥の一つである三菱財閥の流れを汲む。
三菱財閥は1870年、岩崎弥太郎(※①)が土佐藩の運営する土佐商会を独立させ、九十九商会と改称したのが始まりだ。1873年には「三菱商会」に名称を改め、1917年に三菱造船を設立すると、さっそく三菱A型乗用車の製作を開始した。
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①岩崎弥太郎
三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として活躍した。土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人の長男として生まれ、21歳の時に江戸へ。慶応3年(1867年)、藩の商務組織・土佐商会主任に抜擢され、藩の貿易に従事する。明治6年(1873年)に「三菱商会」を設立した。
そして1934年に三菱重工業に名称変更。1970年に自動車部門を独立させる形で三菱自動車工業が設立された。
トラックこそ自社で開発していたが、ジープや乗用車は海外メーカーのモデルをノックダウン生産(※②)していた三菱が、初めてオリジナルの乗用車を登場させたのは1960年。三菱500と名付けられ発売された。
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②ノックダウン生産
他国や他企業で生産された製品の主要部品を輸入し、現地で組立・販売する生産方式。ライセンス生産とは異なり、組立技術は学べるが、個々の部品に関する設計製造の技術を獲得することまではできない。三菱自動車はウィリス=オーバーランド社のジープのノックダウン生産を行なっていた。
三菱自動車工業の設立時からアメリカのクライスラー社とは資本関係にあったが、1993年に解消。そのクライスラーが1997年にダイムラー・ベンツと合併すると、2000年にダイムラー・クライスラーとして三菱に約2250億円を出資し、再び資本提携を結んだ。しかしながら、リコール隠しの不祥事が尾を引き、2004年にはその関係を解消することとなった。
販売台数が激減した三菱自動車は再建を目指し、「クルマづくりの原点へ」をスローガンにするとともに、提携先を模索することに。まずはフランスのPSA(プジョー・シトロエン社)と手を組んだのち、2011年には日産自動車と、軽自動車を共同開発するための合弁会社NMKVを設立している。
ところが2016年には、燃費不正問題が発覚。日産が資本参入し筆頭株主となった。
スリーダイヤ・マークの原型は、創業時の九十九商会が船旗号として採用した三角菱のマークだ
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燃費不正問題の発覚と経過を検証
三菱が燃費不正問題について最初に発表したのが2016年4月20日。このときはekワゴンとekスペース、日産向けに供給しているデイズ、デイズルークスの4車種であった。燃費を計測するために必要な走行抵抗を低く申請するという手法での不正であった。
その後、5月12日には日産が資本参加することが発表された(詳しくはP33下段参照)。
三菱は軽自動車4車種のみだと思われていた不正が、軽自動車だけではなく多くの車種で行われていたことを5月18日に発表した。
不正の内容は軽自動車で行われたものと同様の走行抵抗を低く申請するだけではなく、本来試験をしなくてはならないものを机上の計算のみで算出しているなどの事例も発覚した。
①13代目 ②14代目 ③15代目 ④16代目(正解=③)