【櫻井眞一郎①】建設業から転身したミスタースカイライン

『ここをチェック』
★清水建設から「たま自動車」への転職が第一歩
★歴代スカイラインの開発責任者を任される
★ポリシーは「必ず自分でテスト走行する」こと

建設業から転身したミスタースカイライン

スカイラインの父として知られる櫻井眞一郎は1929年、神奈川県に生まれる。旧制横浜工業専門学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業すると自動車メーカーへの就職を目指すが、新卒採用がなかったことから、恩師の勧めもあり清水建設に勤めることになった。
清水建設ではバッチャープラント(セメントをこねてコンクリにする機械)やコンクリートミキサー車を発明し、作業の効率化を実現する。同社での評価はすこぶる高く、強く引きとめられたが、かねてからの希望を叶えるため、1952年にたま自動車(プリンス自動車工業(※①)の前身)へ転職を果たす。

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①プリンス自動車工業

立川飛行機がGHQにより解体され、東京電気自動車、たま電気自動車、たま自動車を経て、1952年にプリンス自動車工業に社名を変更。プリンス、スカイライン、グロリアと発売し、自動車メーカーとしての礎を築いた。

入社後すぐに自動車部品の改良(※②)を担当すると頭角を現わし、サスペンション設計のプロフェッショナルとしてスカイラインの開発に初代モデルから携わる。そして、3代目以降は開発責任者を務めることに。

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②自動車部品の改良

たま自動車に入社してすぐに櫻井眞一郎は、クレームが多発していたコラムシフトのレバーの改良を任される。その改良について上司と意見が分かれたが、シフトレバーを細くしてしなりを持たせる櫻井案を採用した結果、トラブルがなくなった。

7代目スカイラインの開発終盤に病で倒れた櫻井は、退院後は新設された技術車両設計部で部長を務め、1986年に日産の特装車部門として設立されたオーテックジャパンの初代社長に就任。スポーティな日産車を中心にチューンモデルを手がけ、なかでもスカイラインのオーテックバージョン(※③)は櫻井ファンの胸を熱くさせた。

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③スカイラインのオーテックバージョン

7代目スカイラインにはオーテックがチューンを施したGTSオーテックバージョンなる限定モデルが存在する。本家の方にもGTS-Rというスポーティな限定車があり、ファンの間では櫻井オーテックと本家日産のどちらが「本物」かと議論を呼んだ。

1995年にはエス・アンド・エス エンジニアリングを設立し、地球温暖化防止や排出ガス大気汚染防止技術の開発に心血を注ぐ。2年後にプリンス&スカイラインミュウジアムの館長(のちに名誉館長)に就任。2005年には日本自動車殿堂入りを果たすも、2011年に心不全によりこの世を去った。

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櫻井眞一郎引退後のスカイラインは?

櫻井眞一郎のもとには彼の人柄と見識を慕うたくさんの門下生が集まり、そうした人々を総じて「櫻井学校の生徒」あるいは「櫻井ファミリー」などと呼んでいる。
そんな櫻井ファミリーの代表的な一人が日産自動車の伊藤修令(いとう・ながのり)だ。7代目スカイライン開発時に倒れた櫻井の後継者として責任者を任された人物である。若い頃は悔し涙を流すほど櫻井にしごかれたが、その甲斐あって櫻井に「モノになった」と言わしめている。
7代目スカイラインで思案された4WDをR32こと8代目で開花させ、伊藤はスカイラインの存在を再びアピールすることに成功した。伊藤はのちにマーチ(K10型)などの主管も担当している。

7代目の途中から8代目まで開発責任者を任された伊藤修令と、9代目と10代目の渡邉衡三はともに櫻井門下生。若いころにしごかれた甲斐あって、櫻井も納得のスカイラインを作り上げた

7代目の途中から8代目まで開発責任者を任された伊藤修令と、9代目と10代目の渡邉衡三はともに櫻井門下生。若いころにしごかれた甲斐あって、櫻井も納得のスカイラインを作り上げた

クルマ豆知識

名レーサー人物録/「高橋国光」1940年、東京都出身。二輪ライダーを経て、スカイラインGT-Rで華麗なドリフト走行を見せたことで有名。JSPCでも4回のタイトルを獲得。引退後は自らのチームを運営

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