【百瀬晋六①】戦闘機からバスを経て乗用車の開発者に

『ここをチェック』
★飛行機の設計で高度な技術、思想を得る
★大成功を収めたスバル360の開発に従事
★FFレイアウトこそ乗用車の理想とした

戦闘機からバスを経て乗用車の開発者に

1919年に長野県で生まれた百瀬晋六(ももせ・しんろく)は、松本高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科へ進学し、原動機について学んだ。卒業すると中島飛行機(※①)に就職するが、徴兵により海軍に入隊することに。翌年には軍籍のまま中島飛行機へ派遣され、戦闘機のエンジン(※②)を手がけた。

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①中島飛行機

海軍将校であった中島知久平(なかじま・ちくへい)が創設した航空機メーカーで、SUBARUのルーツにあたる。1917年に飛行機研究所として誕生し、1931年に中島飛行機に改称している。1944年には最盛期を迎えたが、戦闘機を生産していたことから戦後はGHQにより解体された。

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②戦闘機のエンジン

日本海軍と中島飛行機の共同で戦闘機用のエンジン「誉(ほまれ)」を開発。18気筒3万5800ccのエンジンは2000馬力近い出力を誇り、紫電改や疾風などに搭載された。百瀬晋六は軍籍のまま中島飛行機で同エンジンの設計および改良に携わっている。

軍事産業を担った中島飛行機は戦後解体され、百瀬は富士産業の伊勢崎工場(のちに富士自動車工業を経て富士重工業に改組、2017年にSUBARUに社名変更)で再起を果たす。進駐軍が日本に持ち込んだスクーターを参考に、戦闘機用だった在庫部品を利用しラビットを製作するとたちまち好評を得て、スクーター時代を切り開いた。
ボンネット型バスが主流だった時代に、リアエンジン型バスを開発したのも百瀬である。現代のバスの原型を作り、同社がバスボディメーカーとして躍進する原動力となった。
乗用車への進出を目指し、百瀬が責任者となって1954年に試作車を製作する。社内で「すばる1500」と呼ばれる初の乗用車は、正式な販売には至らなかった。だが、このセダンを開発したときの技術とノウハウは、1958年春にデビューしたスバル360に余すところなく生かされている。
同年に自動車技術会(※③)の理事に就任した百瀬は、富士重工業でも出世を果たす。が、あくまでも技術畑で、1966年に自動車技術本部長に、1968年に取締役スバル技術本部長にと昇進し、1983年に監査役になると1991年にはスバル研究所の技術顧問を任された。

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③自動車技術会

自動車に係わる研究者、技術者および学生などから構成される公益社団法人。1947年に創立され、社会的要請の高い課題や将来技術に取り組み、解決に向かっての調査と研究を重ねている。歴代会長は豊田喜一郎など。

1997年に死去したが、1987年の自動車技術会技術貢献賞に続き、2004年に日本自動車殿堂入りを果たしている。

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百瀬晋六引退後の富士重工・スバルは?

1968年に百瀬晋六が車両開発の第一線から退き、その後最初に誕生したスバルのクルマが「レオーネ」だった。
百瀬の技術至上主義から「マーケットに受け入れられる方向」へとコンセプトを転換し、また当時提携した日産の影響が各部に散見されたこともあって、レオーネの登場時は、それまでのコアでディープなスバルファンを大いに嘆かせたという。
とはいえFF方式や水平対向エンジンは踏襲され、途中から4WDグレードを追加するなど、あくまで技術志向であることの片鱗も覗かせた。そして、以降のモデルにも“百瀬の遺産”は受け継がれた。それが現在の、よくいわれる“スバルらしさ”に繋がっているといえるだろう。

■レオーネは1971年に登場した小型乗用車で、レガシィが登場するまでスバルの屋台骨を支えたモデル。当初はFFのみだったが、1972年に非ジープタイプでは初となる4WDグレードを設定した

■レオーネは1971年に登場した小型乗用車で、レガシィが登場するまでスバルの屋台骨を支えたモデル。当初はFFのみだったが、1972年に非ジープタイプでは初となる4WDグレードを設定した

クルマ豆知識

名レーサー人物録/「鈴木亜久里」1960年、埼玉県出身。全日本カート選手権のチャンピオンを獲得後、国内レースで活躍。’88年にF1デビューし、1990年の日本グランプリでは日本人初のF1表彰台(3位)を獲得

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