【豊田喜一郎①】自動織機の製作所から始まった世界のトヨタ

『ここをチェック』
★豊田自動織機製作所の自動車部から事業をスタート
★徹底して貫かれた喜一郎の現地現物主義
★ジャスト・イン・タイム生産方式(かんばん方式)を築く

自動織機の製作所から始まった世界のトヨタ

トヨタの実質的創業者である豊田喜一郎(とよだ・きいちろう)が生まれたのは1894年のこと。父・佐吉(さきち)が織機の製造を営んでいたためモノ作りを身近に見ながら成長し、東京帝国大学工学部機械工学科へと進学した。卒業後は父の豊田紡織に勤め、1921年には米欧へ繊維機械工業などの視察に旅立つ。喜一郎の実際に現物で事実を理解する「現地現物主義」は、この視察旅行で確立されたといえるだろう。
帰国後の喜一郎は自動織機の研究開発に本腰を入れ、G型自動織機を完成させる。数々の特許を取得したが、なかでも「自動織機の予備杼溜」は人為的ミスを防ぐ装置の起源として非常に画期的だった。
G型の量産に向け豊田自動織機製作所を設立すると、社長には姉婿の豊田利三郎(とよだ・りさぶろう)(※①)が就任する。喜一郎は自動織機でのノウハウをもとに自動車開発を始め、1933年に自動車製作部門を開設。2年後より自動車の製造を開始し、現在のトヨタの前身となるトヨタ自動車工業を1937年に設立した。

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①豊田利三郎

豊田佐吉の長女の夫であり、喜一郎の義兄にあたる。東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業すると伊藤忠商店(現丸紅)に就職し、マニラ支店長を経て豊田家に婿養子に。豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業の初代社長だが、自動車産業への参入は否定的だった。

1942年に2代目社長に就任した喜一郎は、東海飛行機(現アイシン)(※②)やトヨタ車体工業(現トヨタ車体)、日本電装(現デンソー)(※③) と次々と関連会社を興し、トヨタグループの礎を築く。しかし、デフレに伴う経営危機を招き、1950年に辞任することになった。

補足情報

②東海飛行機(現アイシン)

東海飛行機株式会社は1943年に設立された航空機の部品を扱うメーカー。1949年に愛知工業と社名を変更し、ミシンや自動車部品を製造するようになった。アイシン精機に改称したのは1965年。

補足情報

③日本電装(現デンソー)

トヨタ自動車の「電装部」が独立する形で1949年に設立された日本電装。主にカーエアコンやエンジンの電気系を生産し、トヨタを中心に世界中の自動車メーカーに供給。現在はトヨタ自動車と豊田自動織機が合わせて30%強の株式を保有する。

しばらくヘリコプターのエンジン開発に取り組んでいた喜一郎だが、トヨタの経営が上を向き始めた1952年に社長への復帰が内定。しかし、実現する前に脳溢血で帰らぬ人に。復帰に向けて「張り切りすぎた」といわれるほどの活動家であった。

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豊田喜一郎引退後のトヨタはどうなったのか?

豊田喜一郎の後を継いだ石田退三は、喜一郎が作ったいわゆる「トヨタ生産方式」の基礎をより強固なものにした人物として知られる。
業績悪化による従業員解雇の責任をとって1950年に喜一郎が辞任したこともあり、石田退三(いしだ・たいぞう)はとにかく経営を引き締めることに専念した。すべての段階における無駄を徹底的に省き、内部留保の拡大に邁進したのだ。それと同時にクラウンやコロナといったトヨタの根幹車種を見事に発売させ、無借金経営の礎を築いた。
1951年から57年間もの期間、トヨタがいっさい赤字を出さなかったのは、喜一郎が作り石田が発展させた、こういった厳格な経営方針を貫き通したからこそなのだろう。

■豊田喜一郎の引責辞任の後、3代目の社長に就任した石田退三はのちにトヨタの根幹車種となるクラウン、コロナ、ダイナ、パブリカなどを登場させる。写真は中核的な位置付けの初代コロナ

■豊田喜一郎の引責辞任の後、3代目の社長に就任した石田退三はのちにトヨタの根幹車種となるクラウン、コロナ、ダイナ、パブリカなどを登場させる。写真は中核的な位置付けの初代コロナ

クルマ豆知識

名レーサー人物録/「中嶋悟」1953年、愛知県出身。国内トップフォーミュラで活躍後、日本人初のフルタイムF1ドライバーとしてF1デビュー。最高位は4位でファステストラップも記録。引退後は日本でチームを運営

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