【櫻井眞一郎②】櫻井眞一郎の残した偉大なる功績を探る

櫻井眞一郎の残した偉大なる功績を探る

櫻井眞一郎の代表作はもちろんスカイラインで、なじみ深いスカイラインの名も櫻井の考案だ。プリンス時代の初代モデルから開発に関わり、2代目では車両全体のレイアウトを担当。そして日産スカイラインになった3代目から7代目(病により途中まで)まで開発責任者を務め、スポーティで運転して楽しいセダン(クーペ)というジャンルを日本に浸透させた。また、6代目スカイラインと基本設計を共用する4代目ローレルの責任者も櫻井が兼任している。
市販車以外では、レース用車両の開発にも携わっている。1965年に1号車が完成したプロトタイプレーシングカー、R380は直6DOHCエンジンをミッドマウントする高性能マシンで、翌年に開催された第3回日本グランプリでは宿敵ポルシェ906を下し優勝している。櫻井にとっても思い入れが深いモデルなのか、1998年には櫻井の設立したエス・アンド・エス エンジニアリングの手によりレプリカが製作された。
後継のR381には、櫻井の考案によるエアロスタビライザーが備わる。可変リアウィングの一種で、真ん中を区切りに左右を個別で動かすことができ、後輪の左右に適切なダウンフォースをかけられるというものだ。もっとも、すぐにレギュレーションで禁止されてしまい、翌1969年に登場したR382には搭載されていない。
R383は櫻井が最後に手がけたレーシングカー。V12エンジンを搭載するモンスターマシンだが、排ガスによる公害問題など世間がモータースポーツを許すような状況になく、日本グランプリ自体が中止に。結局、このマシンは日の目を見ることなく開発中止になった。
日産退社後では、オーテック・ザガート・ステルビオの特徴的なフェンダーミラーが櫻井のアイディアだったと言われている。ボンネットを膨らませフェンダーミラーをボディに内蔵するというスタイルには、デザインを担当したイタリアのカロッツェリアのザガートもさぞ驚かされたことだろう。
エス・アンド・エス エンジニアリング時代は、ディーゼルエンジンのNOx・PM低減技術の商品化を国内で最初に成功。「地球に恩返しをしたい」との想いを74歳にして叶えた。

補足情報

櫻井眞一郎語録

「サスペンションは、乗っている人からは見えないけれど、一番大事なところなんです。市販車は乗りやすい、コントロールしやすい、安全なクルマに仕上げなくてはいけません。私は腰まわりにセンサーを持っています。(中略)コンピュータの数字を信じるエンジニアが多いけれど、セッティングはデリケートにやらなければダメです。何となく気持ちいい、快適に運転できる、ドライブを楽しめるなど、最後のフィーリングのところは人間の感覚で決めていきました」
「新人が入ってくると、1週間、図面に線だけを引かせるんです。エンジニアは、クルマの乗り手に伝えたいことが感覚的なものであっても、最終的にはそれを図面で表現するしか方法はありません。線を引く時は、線の両端がしっかりしているのがいいんです。こういった図面を描けるようになると一人前で、話をする図面が出てきます。(中略)私はクルマからの情報が多く、おしゃべりなクルマが好きなんです」
「いくら時代が進んでも、人間の感覚を超えるセンサーなんてできっこないと思いますよ」

※以上、出典はすべて日産自動車WEBサイト<




櫻井眞一郎が開発責任者となった初めてのクルマが3代目のスカイラインだ。GT-Rもこのモデルから



現代的なデザインとなった6代目スカイライン。直4DOHCエンジンを積むRSが設定され、のちにターボも追加された



丸型四灯のテールランプはケンメリこと4代目スカイラインから。スカイライン史上、最も販売台数が多いモデルだ



可変リアウィングを持つことから「怪鳥」とも呼ばれたR381。開発が間に合わず、初期モデルはシボレー製エンジンを積む



R380は2ℓ直6DOHCをミッドマウントするグループ6規格のプロトタイプスポーツカー。第3回日本グランプリ優勝車

参考情報 ここもチェック!

櫻井眞一郎にまつわるエピソードは?

櫻井眞一郎はニューモデルを開発するにあたり、必ず自らステアリングを握ってテストドライブを行なった。
「自分が設計したクルマは、人が怪我をする前にまず自分が乗れ!」という持論のもと、一番最初に試乗をする。「たとえどんなにコンピュータによる解析が進んだとしても、人間の感覚に勝るものはない」と考え、市販された歴代スカイラインはもちろんのこと、例えばプロトタイプレーシングカーのR380シリーズなどまで自らステアリングを握って試運転したのだった。
そんな眞一郎の市販車に対する信念は「乗りやすく、コントロールしやすい、安全なクルマに仕立てる」ということ。歴代スカイラインの高性能化がさまざまな点で進んでも、決して“単に速いだけのじゃじゃ馬”にはならなかったのは、櫻井眞一郎のそうした信念があったからなのだ。

櫻井眞一郎は「自分で走らせてみないとクルマの素性がわからず味付けできない」という信念のもと、開発責任者でありながら必ずハンドルを握り自身の手でテスト走行したという


クルマ豆知識
名レーサー人物録/「津々見友彦」1941年、満州出身。現役時代はトヨタ、日産、いすゞのワークスドライバーを経験後、自らのチームでグループAなどに参戦。現在は自動車評論家として活躍


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