【豊田喜一郎②】豊田喜一郎の残した偉大なる功績を探る
豊田喜一郎の残した偉大なる功績を探る
父の発明した自動織機を改良し、G型自動織機を完成させた豊田喜一郎。かつて父に言われた「おまえは自動車をやれ」という言葉と、勢いのあるアメリカの自動車産業を目の当たりにしたことで奮起し、自動車に取り組む決意をする。といっても、GMとフォードが席巻していた日本では、自動車産業への参入は無謀なことと財閥さえも手を出さなかった時代である。父以外のほとんどの身内や株主が反対したのも当然のことだろう。
既に国産の自動車も販売されていたが、多くは海外の技術が入ったものであった。喜一郎はそれらに対し、「人のものを受け継いだものには進歩させる迫力に欠け、日本の工業の発展に繋がらない」と異を唱え、まずは自社製エンジンの開発から取り掛かる。失敗に失敗を重ね、ようやくエンジンが回ったのは1年以上も経ってからのことだった。そして1935年、自前の技術にこだわったG1型トラックがついに完成した。
発明家であると同時に経営者としての才覚にも恵まれた喜一郎。トヨタ自動車工業創業の翌年、新たな工場の開設にあたり部品メーカーとの緊密な連携や、徹底して在庫を減らすことを指示し、のちにトヨタ生産方式として世界が手本にすることになる「ジャスト・イン・タイム生産方式」の基礎を作った。そして、他に例を見ない新しい方式に困惑する部下に、「他社は他社、トヨタはトヨタ。他社より優れた方式を打ち立てねば勝てません」と叱咤激励したという。
自動車メーカーと販売会社を独立させたのも、喜一郎の先見の明だ。自動車産業が成り立つかは割賦での販売が鍵を握るとの考えから、自動車への融資に二の足を踏んでいた銀行に代わる販売会社の必要性を強く説き、トヨタ自動車販売を設立した。
そんな喜一郎が夢見たのが、ボディまで自社で作った完全オリジナルの乗用車だ。ボディの設計・製作を専門メーカーに委託せず、ボディとシャシーを一体と考えた総合的な設計による本格的なモデルである。開発スタート時には既に社長職を辞していたが、日本で最も歴史の古いクラウンという車名は喜一郎の発案だ。残念ながら、喜一郎は1952年に57歳で初代クラウンの完成を見ることなく他界してしまう。
補足情報
豊田喜一郎こぼれ話
・喜一郎が生まれた頃、父の佐吉は動力織機の研究に没頭し、豊橋と名古屋を行き来していたため、喜一郎は吉津村の祖父母の元で日々を過ごした。3歳頃になってから、名古屋の佐吉の元に引き取られた。
・1923(大正12)年9月1日、喜一郎は東京で関東大震災に遭遇。高校・大学の学友で、鉄道省に勤務する小林秀雄を訪ね、自動車について話をしていたときであったという。
・A型エンジンの試作第1号は1934年9月25日に完成したが、試作エンジンをシボレー・トラックに搭載して行った運行試験では、シボレー・エンジンの出力60psに対して48~49psしか出なかった。そこで、海外文献を参考にして渦流燃焼室の形状を応用したシリンダーヘッドを設計し、旧ヘッドと交換したところ、シボレーエンジンを上回る65psを実現した。
・喜一郎の指示により、1940年から電気自動車の開発を開始し、ガラス捲き線を用いた不燃電動機の試作を行った。そして、同年8月には試作車が完成。この試作車はEC型電気自動車と呼ばれ、充電1回当たりの走行距離は60kmほどであった。
※以上すべて出典は「トヨタ自動車75年史」
豊田喜一郎は「ジャスト・イン・タイム生産方式」の基礎を作った。トヨタ産業技術記念館(名古屋市)ではその歴史を振り返ることができる
シボレー製エンジンのスケッチから始め、苦労を重ねて完成させたA型エンジン。3.4ℓの直6OHVで最高出力は65ps
豊田佐吉が発明し喜一郎が完成させたG型自動織機。無停止自働杼換装置を始めとして、24もの自働化を実現している
AA型乗用車はトヨタ初の乗用車として1936年に登場。ロッド式ブレーキ全盛のなか、いち早く油圧ブレーキを採用した
商工省と陸軍省からの要請により開発が決まり、1935年に試作車第一号が完成したG1型トラック。完成車は3200円だった
参考情報 ここもチェック!
豊田喜一郎にまつわるエピソードは?
トヨタという企業のなかに脈々と受け継がれている「現地現物主義」。それは決して机上の空論や学問としての知識だけではなく、「実物を見て触って理解を深め、素早い決断と実行をする」というのがあくまでも基本となっている。
喜一郎は、会議室で議論している従業員がいると、「おい、議論をするなら会議室じゃなく現場でやれ!」と怒鳴りつけることも多々あったという。会議室での議論というのは思い込みでの言い争いになりやすく、時間を浪費するだけだ……という考えからの行動だった。
例えばトラブルがあった場合も、現地で現物を目の前にすれば原因を特定しやすく、速やかに改善することができると喜一郎は考えていた。豊田喜一郎とは、決して単なる「良家のおぼっちゃん」ではなく「あくまでも“現場”を重視し、大切にする男」であったのだ。