【世界の自動車業界が震撼カルロス・ゴーン・ショック①】瀕死の日産を死の淵から救った救世主
『ここをチェック』
★日産を復活させたカリスマ経営者
★日産リバイバルプランという大鉈
★金融商品取引法違反、特別背任の容疑で逮捕、そして逃亡
瀕死の日産を死の淵から救った救世主
バブル崩壊後、1990年代の日産自動車の経営状態はひどいものであった。辻義文氏(※①)はバブル崩壊直後1992年に社長に就任した。辻氏は座間工場の閉鎖など大胆なリストラを敢行し、1996年3月期には黒字転換した状態で塙義一氏に社長の座を受け渡し、自らは会長となった。
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①辻義文
バブル後に経営危機であった日産を復活させるため、リストラを開始したのが辻義文氏。座間工場の閉鎖も辻が英断した。辻氏の次に経営責任者となった塙義一氏は、のちに「社員にまったく危機感がなかったあの時期にリストラを開始した辻さんは本当に大変だった思う」と、あの時期の社内の様子を振り返っている。
黒字転換したとはいえ、日産の経営状態は健康的ではなかった。塙氏も数多くの改革を進めるが状況はよくならない。そうしたなか他社との提携が模索される。国内外数多くのメーカーが候補に上がるなか1998年7月に当時のルイ・シュバイツァー(※②)会長と東京で会合を持つ。これが日産とルノーが関係を持つスタートラインである。
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②ルイ・シュバイツァー
1992年から2005年まで、ルノーの会長兼CEOを勤めた。2005年以降は高等政府機関のトップを務め、差別撤廃に携わった。アフリカで現地住民のために生涯をささげたアルベルト・シュバイツァーの従孫(いとこの孫)にあたる。
1998年11月、当時のルノー副社長であるカルロス・ゴーン氏が来日、コストカットについて説明を行い、両社の提携に向けての話が進んでいく。当初は、対等な提携を行うという方向性であった。
しかし1998年末に日産はアメリカでのリース販売の損失が拡大し、財務状況は非常に厳しくなる。1998年3月期に140億円だった赤字額は1999年には277億円、2000年は6844億円と膨らみ続き、3年間の累積赤字額は7261億円にまでなっていた。
対等な提携を目論んでいた日産だが、もはやそれでは事態は収まらない。塙氏はパリに出向きルノーと交渉を行う。交渉当初には存在しなかった出資について、ルノーのシュバイツァー会長から前向きな回答までを取り付け1999年3月に日産とルノーは提携に合意した。
同年4月、カルロス・ゴーン氏が日産の経営陣に加わる。塙氏はCOO(最高執行責任者)というポストを作り、ゴーン氏を迎え入れる。
前出のように1999年から2000年までの3年間の累積赤字は7261億円、有利子負債は2兆円を超えると言われた。
この瀕死の財務状態を改善すべく、カルロス・ゴーン氏は就任後半年足らずとなる1999年10月に日産リバイバルプランを発表。日産自動車の再建に向かって全速力で突き進むことになる。
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ゴーン体勢になって消えてしまったクルマ
ゴーン体勢のなかで、プラットフォームの削減が行われたため、車種そのものも大幅に削減された。効率を追求した車種整理は経営面、財務面では成功したかもしれないが、クルマ好きにはちょっと寂しい思いを強いることになる。なかでもシルビアやスカイラインGT-Rといったスポーツモデルの消滅は、スポーツカー好きの日産ファンには大きな悲しみとなった。サニーやプリメーラなどのノッチバックセダンも消滅。今や日産でセダンに乗ろうとするともっとも小さくても横幅1760㎜のシルフィからとなってしまう。
①第44回 ②第45回 ③第46回 ④第47回(正解=③)
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