【百瀬晋六②】百瀬晋六の残した偉大なる功績を探る

百瀬晋六の残した偉大なる功績を探る

百瀬が手がけた名車は数多いが、最初の一台といえば、国産初のフレームレスモノコックボディのバス、ふじ号があげられる。エンジンをリアに搭載することでボンネットをなくし、客室のスペース効率を高めているのが特徴だ。
初めて挑んだ乗用車のスバル1500はモノコックボディと前輪独立サスペンションが画期的な意欲作。しかし、資金的な問題とプリンス自動車との兼ね合いから市販には至らず。試作車のみで開発が終了された悲運の名車だ。
実際に発売された初の乗用車スバル360は、40万台近くが生産された大ヒット作。フルモノコックボディ、リアエンジン、コンパクトなトーションバースプリングのサスペンションなどを採用する大胆な設計で、軽乗用車では初めて大人4人の乗車を可能としている。
既にスズキがスズライトを発売していたが、リアシートはお粗末なもので、とても大人が満足に座れるものではなかった。360は可愛らしい卵型のスタイリングが現在も評価されているが、軽量化のためボディパネルを通常より薄くし、その薄さで強度を保つ目的で平面を少なくしたという経緯から生まれたもの。媚びた可愛らしさではなく、苦肉の策で生まれた機能美なのである。
1960年に発表されたサンバーもまた、百瀬がチーフエンジニアを務めている。360譲りのメカニズムが多かったが、リアエンジンは空荷の際にトラクションが不足することを防ぎ、4輪独立懸架によるソフトな乗り心地は積み荷の傷防止に効果的と好意的に受け止められた。なお、サンバーは一般的なフレーム構造を採用している。
RRレイアウトを完成させるいっぽう、百瀬は技術者としてFFが理想と考えていた。しかし、駆動輪がステアリングにより向きを変えるというふたつの仕事を受け持つ構造上、FFにはFRやRRよりフィーリングが不自然という欠点があった。そこで百瀬は東洋ベアリングと共同で「ダブルオフセットジョイント」を開発。欠点を克服すると、スバル初のFF車となる1000を完成させた。水平対向エンジン、インボードブレーキ、4輪独立懸架の採用と斬新なこのFF車が、百瀬がチーフとして手がけた最後のクルマである。


レオーネは1971年に登場した小型乗用車で、レガシィが登場するまでスバルの屋台骨を支えたモデル


ボンネットバスが主流だった時代に、フレームレス構造とリアエンジンを採用したふじ号


スバル360は1958年から1970年まで生産された軽自動車。フルモノコック構造を採用する


1966年に登場したスバル1000。FFレイアウト、水平対向エンジンといったスバル伝統の礎を作った


百瀬が初めて設計した乗用車がスバル1500。モノコックや前輪独立サスペンションが画期的だった

補足情報

百瀬晋六語録(抜粋)

「一ヶ所だけでなく、全体を見よ」
「行動を起こす前に、考えて考えて考え抜け。行動を起こしたら自分の信念でつらぬけ」
「みんなで考えるんだ。部長も課長もない、担当者まで考える時は平等だ」
「物をよく見ろよ。机上検討だけではダメだ。設計は足でするものだ」
「自分のやった仕事は、誰にも負けない自信を持て」
「やってみなけりゃ、わからないじゃないか」
「上に立つものは手を汚せ」
「だめなら、だめの説明をしてみろ」

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トヨタの存在によってスバル車はどうなる?

トヨタが富士重工の筆頭株主になったことで、「スバルのクルマ作りが変わってしまうのではないか?」と心配するファンは多いだろう。「スバルの礎を築いた百瀬さんも、草葉の陰で嘆いているのではないか!」との声も少なくない。
しかし百瀬は生前、「物をよく見ろ。机上検討だけではダメだ。設計は足でしろ」「上に立つものは手を汚せ」「みんなで考えるんだ。部長も課長もない、担当者まで考える時は平等だ」ということこをしばしば口にしている。これは、トヨタの“現地現物主義”に通じるではないか。
「まずいと感じたらすぐに直せ」というのもトヨタ流の“カイゼン”に近く、百瀬晋六という名設計者の考えは、意外にもトヨタと近似性があるのかもしれない。今後のスバル車がどうなるかは不明だが、トヨタとスバルとの相性は決して悪くないのかもしれない。

スバル車の礎を築いた百瀬晋六と、豊田喜一郎の理念は意外にも似通った部分が多い。それが理由とは言い切れないが、共同開発の86/BRZはどちらのファンにも受け入れられている


クルマ豆知識
名レーサー人物録/「片山右京」1963年、神奈川県出身。レースデビュー後、1991年に全日本F3000チャンピオンを獲得し、1992年にF1デビュー。1994年には3回の入賞を記録。引退後はサイクリストなどとしても活躍


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