【本田宗一郎①】自身の限界を悟り技術者から引退を決断

『ここをチェック』
★自動車修理業に限界を感じ、製造業へ転身
★藤沢武夫との二人三脚で「世界のホンダ」に
★必要とあらば国の方針にも反抗する強さ

自身の限界を悟り技術者から引退を決断

ホンダの創業者である本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)は1906年に鍛冶屋の長男としてこの世に生を受ける。浜松にてやんちゃな幼少期を送り、1922年に高等小学校を卒業すると東京の自動車修理工場に勤め、6年後には地元浜松にのれん分けの支店を設立。一国一城の主となり、経営者としての人生が始まった。
自動車修理業に限界を感じた宗一郎は「東海精機重工業株式会社」を設立し、モノ作りの道へと進む。だが、知識のなさから行き詰まり、浜松高工(現在の浜松大工学部)の聴講生になることを決意。苦労の末に検品の厳しいトヨタにピストンリングを納める(※①)ようになった。

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①トヨタにピストンリングを納める

ピストンリングは、エンジン内のピストンとシリンダーの隙間を埋める高い精度が求められる部品。宗一郎の東海精機重工業はトヨタと取り引きするにあたり納入検査を受けたが、最初は50個のうちわずか3個しか合格しない悲惨な結果に終わったという。

※写真はイメージです

1945年、三河地震による工場の倒壊を機に株式を豊田自動織機に売却。1年間の休養期間ののち1946年に本田技術研究所を、1948年に本田技研工業を設立した。
すぐにビジネスパートナーとして長年連れ添うことになる藤沢武夫(ふじさわ・たけお)(※②)と出会い、経営は藤沢、技術は宗一郎と分業すると会社は躍進を続ける。だが、宗一郎はエンジンの水冷化に関して若い技術陣と意見があわず、藤沢に技術者としての進退を問われると自身の考えが古くなったと判断し、社長業に専念することを決断した。1970年に4人の専務による集団指導体制に移行し、1973年に藤沢が副社長からの引退を宣言すると、「俺は藤沢あっての社長だ」と取締役最高顧問へと退いた。

補足情報

②藤沢武夫

長年のビジネスパートナーで、ホンダの副社長を務めた。鋼材を扱う小売店から独立し経営を学び、通産省技官の竹島弘の仲介で宗一郎と出会う。技術に没頭する宗一郎に経営、経理を完全に任され、社印すらも預けられるほど信頼されていた。

それからちょうど10年後に取締役を辞し、終身最高顧問に。1989年にはアジア人初の米国で自動車殿堂入り(※③)を果たすが、2年後に肝不全により84歳で人生の幕を閉じた。

補足情報

③米国で自動車殿堂入り

自動車殿堂はアメリカ合衆国ミシガン州にある自動車と自動車産業に関する殿堂。殿堂入りしているのはヘンリー・フォードなどのそうそうたる面子で、宗一郎はアジア人として初めて名前を並べた。


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本田宗一郎引退後のホンダはどうなったのか?

1973年の創業者・宗一郎引退を受け、新たに本田技研工業の社長に就任したのは、宗一郎の一番弟子といわれた河島喜好(かわしま・きよし)だった。
宗一郎が会社から離れ、そして軽乗用車から撤退するなど、河島喜好が社長に就任した当時のホンダの状況は決して思わしくなかった。しかし、オイルショックでほかの自動車メーカーが軒並み商品の値上げをするなか、唯一ホンダのみが価格を据え置いた。これが奏功し、ホンダだけが売り上げを伸ばすことになったのだ。 宗一郎ゆずりの「他に倣うな」というスピリットにより、経営者がかわってもホンダの躍進は続き、2021年度の営業利益が8712億円に。現在、国内の販売台数は2位の座についている。

■「他に倣うな」という宗一郎の精神は受け継がれ、ライバルメーカーとは違ったアプローチをすることが多いホンダ。ミッドシップ2シーターオープンの軽などは、いかにもホンダらしい

■「他に倣うな」という宗一郎の精神は受け継がれ、ライバルメーカーとは違ったアプローチをすることが多いホンダ。ミッドシップ2シーターオープンの軽などは、いかにもホンダらしい

クルマ豆知識

名レーサー人物録/「黒澤元治」1940年、茨城県出身。現役時代は主に日産系ワークスドライバーとして活躍。引退後は卓越した評価、開発能力を生かしタイヤや車両開発にも携わる

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