【戦前の自動車①】ガソリン自動車の歴史は1870年に始まった

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★蒸気に代わりガソリンエンジンが主流に
★フォードによる大量生産の成功で大衆化が進む
★30年以上遅れて日本でもガソリン自動車が誕生

ガソリン自動車の歴史は1870年に始まった

自動車の歴史は、1769年にフランスの軍事技術者ニコラ=ジョゼフ・キュニョーが発明した蒸気自動車から始まったといわれている。
最初の転機は、1870年にオーストリアのジークフリート・マルクスがガソリン自動車を発明したことだろう。これによりガソリン自動車時代が幕を開け、1876年にニコラウス・オットー(※①)がガソリンエンジンを開発すると、ドイツのゴットリープ・ダイムラーは2輪車や馬車に改良したエンジンを取り付け、1885年に特許を出願した。そして時をほぼ同じくしてカール・ベンツもエンジンを載せた3輪自動車を製作し、最初からガソリン自動車として設計された乗り物として特許を取得した。

補足情報

①ニコラウス・オットー

ニコラウス・オットーニコラウス・オットーは現在も主流になっている4サイクル(ストローク)エンジンを発明したドイツの発明家。概念としてはあったものの、それを現実のものとしたのは彼が初めてだったため、現在も一般的な4サイクルエンジンのことをオットーサイクルエンジンと呼ぶ。

1880年代には世界初のレースが開催されるなど自動車は徐々に浸透していくが、あくまでも富裕層の乗り物だった。 それを一変させたのが、1908年にT型で大量生産を成功させたヘンリー・フォード(※②)だ。大衆化の波はまずアメリカを席巻し、徐々にヨーロッパへも押し寄せ、1919年には自動車の大衆化を目指したシトロエンがフランスで設立される。

補足情報

②ヘンリー・フォード

ヘンリー・フォードフォード・モーターを創設し、ライン生産方式を取り入れ自動車の大量生産を成功させた人物。これにより一部の富裕層向けの高額商品だった自動車が大衆にまで浸透した。

こうした流れに目をつけたのが、時のドイツ首相アドルフ・ヒトラーだ。1934年にフェルディナント・ポルシェ博士(※③)の国民車構想を聞くと、協力を約束。のちのフォルクスワーゲンタイプ1(いわゆるビートル)であるKdFが誕生した。

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③フェルディナント・ポルシェ博士

ポルシェの創設者にして、自動車工学の天才。ダイムラーを含む自動車メーカーでの設計担当を経て独立すると、ドイツの国民車構想の下にVWタイプ1を開発する。意外にもポルシェ車は手がけておらず、初の市販車356も長男のフェリー・ポルシェによる設計だ。

そのいっぽうで自動車は「高性能化」も進み、キャデラックはV型16気筒エンジンを搭載した高級車を、メルセデス・ベンツは最高時速が200㎞近いスポーツカーを開発。自動車界は華やかさを増していったが、第二次世界大戦の勃発により一時的に停滞することになる。


ゴッドリープ・ダイムラーは1885年にガソリンエンジンを搭載した2輪車を、翌年に4輪車を完成

参考情報 ここもチェック!

戦前の日本の自動車産業について

欧米では既にガソリン自動車が走っていた1904年(明治37年)、世界から100年以上遅れて日本初の蒸気自動車が登場した。
わずか3年後にガソリン自動車が製作されるが、アメリカで購入してきた部品を利用していたため、純粋な国産とは言い難いものがあった。
純国産車が登場したのは1914年になってから。日産の前身となる改進社が「脱兎号」を博覧会に出品したのが最初だ。以降はさまざまな企業が自動車の開発を手がけ、1918年に初の量産乗用車の三菱A型が誕生。
しかし、先進国の壁は高く、フォードとGMが日本に工場を設立すると国産以上の台数を生産するようになる。日本の自動車産業が発展を迎えるのは、戦後になってからのことだ。

海外から部品を輸入して自動車を作っていた日本において、純国産の自動車第1号となったのが改進社(日産の前身)の脱兎号だ。田(D)、青山(A)、竹内(T)の頭文字から名付けられている

海外から部品を輸入して自動車を作っていた日本において、純国産の自動車第1号となったのが改進社(日産の前身)の脱兎号だ。田(D)、青山(A)、竹内(T)の頭文字から名付けられている

クルマ豆知識

名スポーツエンジン列伝/「C型」(ホンダ、直4) 1985年に登場したレジェンドに初搭載。1990年にNSXに搭載された際にはVTEC、DOHC化され、3ℓでありながら8000回転を可能にした。最大排気量は3.5ℓ

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