【石橋正二郎②】石橋正二郎の残した偉大なる功績を探る

石橋正二郎の残した偉大なる功績を探る

石橋正二郎が経営手腕を発揮したのは、実家の仕立て屋に見切りをつけ、足袋専業に業種替えをしたことに始まる。次いで、衣食住を保証するかわりに賃金を支払わない徒弟制を廃止し、給与制を採用するなど近代的な雇用制度を確立。足袋の製造にあたっては石油発動機を導入しただけでなく、電力が供給されるとすぐに電化し作業の効率化に努めた。
大量生産が叶うと、商品の宣伝に目をつける。九州にはまだ存在しなかった自動車を東京から購入し、これを大いに利用した。また、サイズに関係なく価格を均一にすることで爆発的なセールスを達成。足袋メーカーとして大成功を果たした。
底にゴムを張り付けた地下足袋は、足袋の新しい可能性を模索した石橋と兄・徳次郎による発明だ。世の中が和服から洋服へと移ると今度は布製ゴム底靴に着目し、さっそく生産に移る。1927年には輸出するまでに至り、現地生産まで視野に入れる先見性を見せた。
ゴムを扱い次第にタイヤへの関心を強めていった石橋は、アメリカ同様に日本でも自動車が普及すると予測し、さっそく開発に取りかかる。ようやく完成するとブリッヂストンタイヤを設立し、販売を開始した。しかし、ブリヂストンのタイヤは海外の技術によるライバル社の製品より劣り、販売は低迷。窮地に立たされた石橋ブリヂストンは地道な改良を続け、まずは品質の向上を心がけた。ちょうどその頃に太平洋戦争が勃発し国産志向が強まったこともあり、ブリヂストンは成功への階段を上りはじめた。
成功の陰には、創業の直後、品質責任保証制を採用し、製品の故障に際しては無料で新品と取り替えるという思い切った戦略に出たこともあった。これはブリヂストンという無名なメーカーのタイヤを買ってもらうための手段であり、わずかなキズで不良品といって取り替えを要求する顧客や、故意に破損させて取り替えを求めるクレームにも真摯に対応し信頼を高めていったのである。
石橋は技術者ではないため発明と呼べるものはほとんどない。しかし、ブリヂストンを日本有数の企業に発展させた先見性と決断力は非凡というほかない。たしかに、名経営者である。


日本足袋の倉庫を改築したタイヤ工場で紆余曲折を経て誕生した国産タイヤの第一号


ゴルフボールなどのゴム製品にも進出。現在はブリヂストンスポーツ社の扱いで、国内シェアのトップを争っている


足の裏にゴム底がつく地下足袋は石橋兄弟の発明。ゴム底からゴムを取り扱い、次第にタイヤへの興味を増していった


自動車製造への一歩として始められた自転車産業。当初は既存メーカーとの格差が大きく、苦労を重ねた。写真は当時の久留米工場

補足情報

君島武男工学博士が正二郎を勇気づけた

自動車タイヤの起業について正二郎は、兄の徳次郎社長に相談したが反対される。日本足袋社内の技師に意見を求めても賛同は得られず、輸入商社に意見を求めてもやはり反対された。
そんななかただ一人、九州帝国大学工学部応用化学科教授だった君島武男工学博士だけが、「自分はアメリカのゴム化学を学ぶためアクロンの大学に長く留学していたので、タイヤの製造技術がいかに難しいものかをよく知っている。しかし、日本足袋の年間利益相当分くらいの資金をあなたが研究費としてつぎ込み、100万円や200万円は捨てる覚悟があるのであれば、協力しましょう」と、タイヤ国産化について相談を持ちかけた正二郎に語った。その後正二郎は1929年4月、自動車タイヤを一日300本製造するのに必要な機械類一式を、米国・オハイオ州アクロンの会社に極秘裏に発注した。
※出典はすべてブリヂストン公式WEB




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ブリヂストンにまつわるエピソードは?

「ブリヂストン」という屋号の由来が、石(ストーン)橋(ブリッジ)にあることは有名な話だ。
当時の日本は舶来品崇拝の傾向があり、主流だった海外ブランドのタイヤにイメージで負けないためには英語の会社名、製品名をつける必要があった。また輸入品と競争するにとどまらず、海外に輸出して外貨獲得に貢献しようとした正二郎の念願からも、海外でも通用しやすい英語名を工夫する必要があった。
そこで正二郎は石橋の姓を英語風に「ストーンブリッヂ」にしたらどうかと検討する。しかし、それでは語呂がよくないことから並び替え、「ブリヂストン」に決定(※1931年時点ではブリッヂストンタイヤ)。あわせて、石で橋を築く時に中心となる要石(キーストン)の断面図形に、ブリヂストンの頭文字であるBとSの二文字を配置したものを商標として採用したのだ。

当初は「石橋がひっくり返る」と揶揄されたブリヂストンだが、ロゴマークの要石のように、乗用車からモータースポーツまでタイヤ業界になくてはならない存在。


クルマ豆知識
名レーサー人物録/「土屋圭市」1956年、長野県出身。峠の走り屋からプロダクションカーレースにデビューし、グループAや全日本GT選手権で活躍。引退後はARTAの幹部としてレースに携わる


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