【石橋正二郎①】地下足袋のゴム底からタイヤ産業へ進出

『ここをチェック』
★仕立て屋から足袋専業に転身
★九州で最初の自動車を広告宣伝に利用
★1953年に売上高100億円突破し業界トップに躍り出る

地下足袋のゴム底からタイヤ産業へ進出

ブリヂストンの創業者である石橋正二郎が生まれたのは1889年のこと。福岡県久留米市の実家は着物の仕立て屋を営み、地元の商業学校卒業後に家業を継いだ。仕立て屋の将来に不安を抱き足袋製造に進出すると業績は順調に伸び、1912年には九州で最初に自動車を購入し、足袋の宣伝に利用した。
1918年には兄の徳次郎を社長に日本足袋(※①)を設立。その後地下足袋の発明やゴム靴の生産で成功すると1929年にアメリカからタイヤ製造装置を買い付け、同社の倉庫を改築し試作を開始した。そして1930年に初の純国産タイヤを完成させ、翌年にブリッヂストンタイヤ株式会社を創立。ゴム工業への本格参入を果たした。

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①日本足袋

石橋正二郎と兄・徳次郎が1918年に創立したはき物メーカー。ブリヂストンは同社のタイヤ部から独立し、1947年に両社が資本関係を分離すると、正二郎はブリヂストンの経営に専念した。現在はアサヒシューズとして、オリジナルブランドのスニーカーなどを扱っている。

タイヤの開発生産だけでなくゴルフボールやVベルト、ゴムホースにも挑戦する一方、海外への進出も積極的に取り組み、1953年には売上高が100億円を突破(※②)。創立22年にして業界首位に立った。

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②売上高が100億円を突破

戦後の需要増大によりタイヤの生産を拡大したが、ゴム不足、価格の急騰で経営危機にまで陥った。銀行の融資に頼るほど混迷は極めたが、設備の近代化とレーヨンタイヤへの転換が奏功し、1953年には売上高が100億円を突破した。

絵画を収集する趣味のある石橋は、1952年にブリヂストン美術館を開設。自身のコレクションを展示するだけにとどまらず、1956年には文化事業を柱に活動する財団法人石橋財団(※③)を創立し、理事長へと就任した。また、東京国立近代美術館の建物や、ヴェネチアのビエンナーレ日本館は石橋からの寄付である。

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③財団法人石橋財団

石橋財団は石橋正二郎の文化事業を永続的なものとするために1956年に設立された公益財団法人。1961年には石橋個人のコレクションの大半を受贈し、翌年にはフランスで石橋コレクション・パリ展を開催した。

その後、ブリヂストンで取締役会長、取締役相談役と転任し、1976年に87年の生涯に幕を閉じた。その功績は死後も称えられ、2002年に日本自動車殿堂、2006年に米国自動車殿堂入りが決まった。

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石橋正二郎引退後のブリヂストンは?

1963年、石橋正二郎は社長の座を、当時43歳だった長男・石橋幹一郎に譲った。 幹一郎は副社長時代に見たラジアルタイヤに興味を持ち、1962年にトラック/バス用のラジアルタイヤを発売すると、社長就任以降もその研究開発を続行させた。
そして1964年、乗用車用としては国産初となるラジアルタイヤを開発し、1971年には斬新なブロックパターンを持つ「RD-201」を発売。これがブームになるほどヒットし、ブリヂストンはその地位を確固たるものにした。
幹一郎はのちにファイアストン買収を主導するなどしてブリヂストンを世界的企業に成長させるとともに、資本と経営の分離を標榜し、同族企業からの脱皮も図った。

石橋正二郎は経営に「若い気風を」との考えから当時43歳の長男・幹一郎に社長の座を譲った。ブリヂストンは新社長の下でラジアルタイヤの開発を進め、さらなる成功を収めることになった

石橋正二郎は経営に「若い気風を」との考えから当時43歳の長男・幹一郎に社長の座を譲った。ブリヂストンは新社長の下でラジアルタイヤの開発を進め、さらなる成功を収めることになった

クルマ豆知識

名レーサー人物録/「鈴木利男」1955年、埼玉県出身。全日本カート選手権のチャンピオンを獲得後、長年日産系ワークスドライバーとして活躍し、デイトナ24時間レースでも優勝。日産GT-R開発ドライバーも経験

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