【本田宗一郎②】本田宗一郎の残した偉大なる功績を探る
本田宗一郎の残した偉大なる功績を探る
妻の買い物が少しでも楽になるようにと、自転車にエンジンを取り付けたことから始まるホンダの製品作り。本田宗一郎の「蕎麦屋の出前が片手で運転できるバイクを」の声で開発されたスーパーカブからもわかるように、彼のアイディアの基本は困っているところに需要を見つけることにある。
2輪で才覚を見せつけた本田だが、自動車ではたびたび技術陣と衝突した。S500の駆動チェーンを収めるケースとサスペンションの一体化は成功したが、N360の駆動方式については意見が割れ、FFレイアウトに否定的だった本田が折れることになった。
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1966年に発表されたホンダ初の乗用軽自動車がN360。
サイズの割に広い居住空間を持つのが特徴
次に登場したホンダ1300こそが、本田の「世界に通用するクルマを作ろう」という経営方針を具現化したモデルだ。このホンダ初の本格的乗用車は独創的なメカニズムが多く採用され、なかでも本田肝いりの空冷エンジンは高性能で、1・3ℓながら1・8ℓ並みのパワーを実現していた。そのいっぽうで、重量増や生産性の低さなどデメリットも少なくなく、性能の高さとは裏腹に販売は低迷。同時期のF1マシンも本田の意向で空冷エンジンを搭載していたが、こちらも成績が振るわず、技術陣は空冷の限界を悟った。
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初の乗用車がオープンスポーツのS500というのがいかにもホンダらしいところ。DOHCエンジンの最高出力は44psを誇った
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自動車ではないがスーパーカブはホンダの命運を決めた一台。日本のみならず世界で愛用された世界最多生産の2輪車だ
あくまでも空冷を推す本田に、技術者達の不満は大きくなるばかり。経営を任されていた藤沢が業を煮やし本田に社長と技術者のどちらの道を取るのかを問い、本田は技術の一線から身を引くこととなった。もちろん経営者として厳しい注文をつけたのには変わりはない。例えば、技術から退いた後に開発された新しい水冷エンジンはアメリカのマスキー法をクリアすることが目標とされていたが、「エンジンのことはエンジンで解決しろ(排ガスの問題は触媒に頼るな)」と号令が下された。また、完成予定日をマスコミに発表し、延々と開発を続ける技術陣にハッパをかけたりもした。
そうして誕生したのが世界で初めてマスキー法をクリアしたCVCCエンジンで、本田はこのエンジンを見て、世界一の自動車メーカーになれると喜んだという。
CVCCエンジンを搭載した初代シビックの大成功の後も本田の厳しくも斬新な注文は続き、数えきれないほどの名車がホンダから生み出された。
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本田宗一郎の空冷エンジンへのこだわりから生まれたホンダ1300。
FFレイアウトや全輪独立懸架を採用する意欲作だった
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初代シビックやCVCCエンジンの開発に被術者としては関わっていないが、社長としておおいに口出しはしている
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本田宗一郎 こぼれ話
・当時、会社の判子はすべて藤沢武夫に預けていたため、本田宗一郎はホンダの社印も実印も見たことがなかったという(本田宗一郎著『やりたいことをやれ』より)
・経営難に陥った際、藤沢の助言でF1やマン島TTレースなどのビッグレースに参戦することを表明して従業員の士気を高め、経営を立て直した(藤沢武夫著『経営に終わりはない』より)
・当時のホンダ従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていた
・皇居での勲一等瑞宝章親授式の際「技術者の正装は真っ白なツナギだ」と言い、その服装で出席しようとしたが、周囲に止められ、社員が持っていた燕尾服を借りてして出席した(本田宗一郎著『本田宗一郎 夢を力に 私の履歴書』より)
参考情報 ここもチェック!
本田宗一郎にまつわるエピソードは?
1963年、通産省(当時)は来るべき貿易・為替の自由化に備え、国内の中小自動車メーカーを合併させようと考えていた。2~3の巨大メーカーのみとすることで、GMやフォードなど、当時の大メジャー輸入車に負けない体制を整えようと考えたのだ。
これに猛反発をしたのが、まさに4輪事業に参入しようとしていた本田宗一郎だった。
「国の補助で事業をやって成功したためしはない! 自由競争こそが産業を育てるのだ」と主張し、当時の通産省の佐橋滋企業局長(1913年生まれ、東京帝国大学法学部卒)に猛然と抗議。そして通産省の中止要請を押し切り、T360とS500の両モデルを発売した。
結局、この法案は廃案となり、1966年に宗一郎と佐橋が手打ちのための会談を行なったが、結局は大喧嘩になったというエピソードがある。